渋谷区議会議員の鈴木けんぽうです。

 

「渋谷区男女平等及び多様性を尊重する社会を推進する条例」について、いまだに誤解が大きいようなので簡単に記しておきます。
あわせて、条例を巡る状況、いくつか私の考えを記しておきます。

 

目次

  1. パートナーシップ証明書は同性婚と関係ないことなど
  2. パートナーシップ証明書への、当事者からのご批判
  3. LGBTの方々は多様
  4. 公表規定を「公開処刑」にしてはならない
  5. LGBTの当事者は理解や支援を求めているか

1、パートナーシップ証明書は同性婚と関係ないことなど

 

時に大きく取り上げられるパートナーシップ証明書について。

基本となっているのは、「結婚と異ならない実質を備えている同性カップルに対し、パートナーシップ証明書を発行する」という仕組みです。

同性婚を認めるものでは断じてありません。

憲法では「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」と24条に規定されています。これは、必ずしも同性婚を否定するものではないと考えていますが(諸説あり)、条文そのものには同性婚が明示的に記載されていないので、憲法に基づいて行われる区の行政としては同性婚には当然踏み込む権限がありません。

なので、「証明書」にとどまります。

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もちろん、周囲に配慮を求める規定もありますが、本質的には強制力はありません。ということで、個人の行動、選択について、「こういう状態だよ」ということを証明することにとどまります。ただ単に証明するだけです。こういう生き方もありだよね、と個人の価値観を認めていくということです。

これが「同性婚」という法的効果を伴う制度になりますと、社会的な価値観を前提にしたものとなります。つまり、国民全員が(賛成反対ももちろんあるでしょうが)社会全体として選択するものということです。

憲法解釈を回避するというだけではなく、個人と社会という点でも、実は大きな差があるのです。だから、簡単に「渋谷区の同性婚・・・」などと言われると、非常に困惑します。社会全体の価値観にまで踏み込んだ条例ではありません。あくまで「こういう生き方もありだよね」までなのです。

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とはいえ、この証明書、そしてこの条例の意義は大きいと思っています。

最大の意義は
「行政が同性カップルというあり方・生き方を認める」
ということにあるでしょう。

今まで隠された存在となっていた、なかったこととされていた状態を、公が認めた。このインパクトの大きさから(同性婚解禁と誤解された向きも多かったように思いますが)、全国的に評価されたのであると考えています。

2、パートナーシップ証明書への、当事者からのご批判

さて、このパートナーシップ証明書ですが、LGBT当事者の方からもご批判をいただくことがあります。しかも、結構多いです。

大きくまとめると、

  1. 手ぬるい。同性婚にまで踏み込め!
  2. 静かに暮らしているんだから、波風立てないでほしい!
  3. パートナーのいる人対象の「イチャイチャ証明」でしょ? 自分には関係ないし、ちょっと不愉快

という3類型があるように感じます。

1)は、わかりやすいですね。ガッツリ同性婚推進の方々であり、中途半端なところではかえって迷惑、ということなのでしょう。もちろん、いろんな意見があるのでしょうが、批判する方も確実にいらっしゃる。

2)のご意見は、かなりの数いただきました。あえて単純化すると、隠して生きている人が多いかなと。世間で話題にされ、好奇の対象となることが耐えられない。ネタにされるのが嫌だ。周りにばれたらどうしよう。などなど。

3)のご意見は、お友達や飲み屋などでヒアリングしたときによくいただきました。パートナーがいる時点で十分幸せなのに、その人たちだけが対象の制度なんだよ! 恋人のいない自分には関係ない! と。

まぁ、言わんとすることはよくわかります。反対はしないけど…という感じですね。

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全てのLGBT当事者の方が、望んでいるとは限らない。パートナーシップ証明制度を迷惑と感じていたり、軽い疎外感を感じている方もいらっしゃるのです。

それをわかったうえで、でもこの制度は大きな意義がある、と思って私は進めています。この制度で救われる方は多いだろうし、今つらい思いをした方でもいずれ考えが変わるかも知れないし。社会にとってプラスであろう、と確信しています。

 

3、LGBTの方々は多様

LGBTとひとくくりにされがちですが、人それぞれ。それぞれ立場も状況も考え方も志向も違います。あたりまえですけど。

  • 大いに議論してもらって、現状を知ってもらって、一緒に考えてほしい! という人もいれば、そっとしておいてほしい、話題にすらしないでほしい、好奇の目が耐えられない、という人もいる。
  • 自分を受け入れている人もいれば、自分のことを嫌いで仕方ない人もいる。
  • 自分で気づいている人もいれば、気づいていない人もいる。
  • パートナーがいる人もいれば、今まで恋人がいたことすらない人もいる。

と、まぁ、いろんな方がいると言うことを念頭に置いておく必要があります。人間は理解するために単純化を必要としますが、それは切り捨ても伴うことです。

で、カミングアウトされている方々は、凄く強いor強くなったのかもしれません。いろんな秘めた葛藤、気づいてない思いを持っていらっしゃる方が、その後ろに多数いるであろうことを忘れてはなりません。だから、カミングアウトされている当事者の声は極めて貴重ではあるものの、それだけでわかった気になってしまわないように気を付けないとなぁ、と思います。

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さて、上であげた事項は、人間の悩み全般に言えることであって、LGBTに限らずみんな持つ、いわば葛藤です。

自分のこと嫌いな人とか、自分の「なりたい自分」に気付いていない人とか、フツーにいますよね。そんなに特殊なものではないので、構えないでもいいのかなと思います。

LGBTに限らず、どんな悩みや葛藤を抱えていても、それはそれとして受け入れる。そんな自然体が必要なのかなと感じています。

 

4、公表規定を「公開処刑」にしてはならない

ここで、条例制定時に大いに議論になった「公表規定」について触れておきます。条例の趣旨に反する、勧告を無視するなど悪質な事業者名を公表することができる規定です。条例第15条。

私はここは大反対で、公表規定を備えるべきではない、備えたとしても発動すべきではない、と確信しています。なぜなら、価値観に関わるものだからです。

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「LGBTに対してひどい仕打ちをした会社」が公表され、「社会的制裁(前区長のコメント)」を課されれば、それは結局悪意を生み、分断されるだけです。黙ったとしても、嫌々従ったとしても、そこで悪意や嫌悪感が深まれば、それは解決とは言えません。

当事者の方々は本当にそれを望むものだろうか?

 

自分だったら、よっぽどの必要がない限り、自分のことを嫌っている人とはお付き合いしたくない。例えば、「民主党は国賊!」を公言している人にあんまり近づきたくないし、仕事を頼みたくもない。だから、「民主党に対する差別禁止法」みたいなやり方で無理やり言うことをきかせたとしても、あんまりメリットはないと思うのですね。気分良くない。離れていればそれでいい。

対話すれば誤解に基づくものだったり、そこさえ除けばいい人だったりすることが多いのですが、強権的に対応したらそんな対話すら生まれなくなりますね。

それと同様で、LGBTに対する反発に対しても、わざわざ「公開処刑」をしていうことを聞かせるのではなくて、配慮をしてくれる事業者を探しやすくなったり、自然体で当事者と接する人が増えたりすることこそが理想だろうなと思っています。

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渋谷区の条例審議では、最終的には、公表規定については使わないが規定としては残すという方向になりました。また、罰と言うよりは「LGBTの方々が嫌な思いをしないように、避けることができるように」と整理もされました。

それでも、私は表彰規定(条例第13条)を使ったほうが、社会的にストレスなく同じ政策目標を達成することができるだろうと考え、提案を続けています。

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同様に「差別的発言だ!」と叩いてしまうのもマイナスがあるように思えてなりません。LGBTに限ったことではないですが。

叩いたって当人の考えなんて変わらないし、人の価値観についていろいろ言ってもね・・・多様な価値観を認めるのであればなおさら、たとえ不都合でも多様な価値観を保障する必要があるのではないかなぁと。

その発言によって傷ついた当事者がいれば、その人が抗議の声をあげるのはもっともですが、関係ない第三者が糾弾しても、良い結末を生むようには思えません。表面だけ変わって陰で嫌悪を募らせても意味がありませんから。

ましてや、「騒がれるのが辛い」とか、「自分で自分が受け入れられない」など様々な状態の方がいるデリケートな話です。慎重さが求められるでしょう。

 

さきほど、「LGBTは多様」と書きましたが、アンチLGBTも多様だということも見逃せません。激しいアンチLGBTの方の中には、自覚していない当事者も少数ですが存在するという研究もあります。また、容認している方も、感情はそこまで行っていないけど理性で容認しているという方もいらっしゃるはずです。そう考えると、色々な価値観、考え方、背景の人がいる、ということを前提にしておおらかに捉えるのがよいのではないかな、と思っています。

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ちなみに、長谷部区長もいくつかの記事や講演で、

「アメリカに旅行に行ったとき、ゲイにナンパされてびっくりした。だんだん慣れてみると、周りにLGBTの方がたくさんいることに気付いた。だんだん普通に接することができるようになった(意訳)」

と言っていました。あれだけ熱心に取り組んでいた長谷部区長も、最初は抵抗感があったわけです。

人ってそんなもんじゃないかなぁ。何かをきっかけにして変わることもよくありますよね。嫌悪を募らせる方向で対処してしまうと、変わることすら望めなくなってしまいます。

逆に、LGBTに対して理解がある、としている人でも、例えば家族(自分のこどもとかね)がLGBTカミングアウトしたらすぐには受け入れられない、ということもあり得るでしょう。人間だもん。いろいろ複雑です。

 

そういうのも一切合財ひっくるめて、淡々と受け入れていくのが、真に多様性を尊重する社会と言えるのではないでしょうか。

 

5、LGBT当事者は支援や理解を求めているのか。

ゲイの方からこんな話を聞いたことがあります。

「私はLGBTに理解があるの! と近づいてきた女の子が、あまりにしつこく理解理解と言っているから、『実はレズっけあるんじゃないの?』とからかったら怒って離れていった。『LGBTに理解がある自分』が好きなだけじゃないか?

よくあることのようで、周りで聴いている人はあー、またか、というような反応でした。

また別の場では、当事者の方に「LGBT支援てなんだ、そんなもん求めてない」とも言われました。自分はかわいそうな存在ではない、支援される筋合いはない、と。

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LGBTの方々全体が特殊でかわいそうな存在なんだ、というわけではありません。自信を持っていきいき過ごしていらっしゃる方も多いです。だから、基本はあるがままでOK、構えず普通に接すればいいんじゃないかなと。

「私はLGBTフレンドリーになります」と目指すものではないし、そもそも当事者は本質的には支援や理解を求めているわけではないとも思います。単に普通に生活できるようにしてほしい、普通に接してほしい、と思っていらっしゃる方が多いのではないかなぁ。

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もちろん、LGBTの方々は生きづらさを抱える方が多く、自殺や貧困に陥る方の割合も高いのが現実です。そういう方々に対して、適切な支援が必要になるのは言うまでもありません。

また、制度などでの不都合もありますから、合理的でないものについては変えていく必要もあるでしょう。

この辺は、当事者の皆さんの意思を尊重しつつ、ある程度は「決め打ち」で突っ走らなくてはならないところもあると思います。例えば、様々な批判があることを承知で多様性社会推進条例を成立させたように。

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究極的には、

「お前、ツンデレな子が好きなんだー。へー」

と気軽に話せるのと同様に、

「お前、同性(両性でもなんでもいいけど)が好きなんだ。へー」

と、気軽に話せるのがこの件については理想なのだと思っています。

正直、他人の恋愛や志向なんてどうでもいいもんね。よっぽど親しかったり、三角関係になったりするわけでもない限り(個人的には恋バナは大好物ではあるけれど)。

そんなところかな。

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人が自分の幸福を追求することは、社会的によほど問題があるものでない限り、自由だと思います。

どなたも、どうぞ、ご自由に人生を謳歌してください。

 

ということで、とりとめのない長文になりました。なにかの参考になれば。